2014年12月21日日曜日

<倉吉市の誇れる人材> 倉吉白壁土蔵群周辺、日本料理「飛鳥」の調理師スタッフ井上由美子さんが、第52回技能五輪全国大会の日本料理部門の競技に出場し、見事敢闘賞を受賞されました!

2014年7月3日木曜日

山陰ゆるい写真部 南部町地域おこし協力隊

2014年6月25日水曜日

2014年5月17日土曜日

2014年4月11日金曜日

その地を『出芽』イズメと名づけた。

日月神示研究会

古代吉備が備前、備中、備後、美作と分断されたように、古代出雲は伯耆、出雲に分断された。
伯耆は鉄の利権のためまっさきに侵略され、八岐大蛇に置き換えられ、古代出雲から歴史的に消された。
8世紀、古事記、日本書紀の編纂には後に天孫と云われる物部、出雲国造がかかわり、その事実を消された。
伯耆にはニニギ、九州物部との交わりが古社の祭神に見ることができる。
そこには鉄が背景に垣間見れる。
大山は日本海の富士(ランドマーク)であり、黒い砂の浜をもった日本の聖地であり縄文時代、大陸から力あるものがこの地を目指した。
はるか4000年前、南インドのトラビダのクナド族は、度重なるアムール人の侵略に耐えかね。噂に聞いた東方の桃源郷を目指す移動の旅にでた。
なん世代も異動する地で和合し混血し、その地の文明、技術を吸収し、北海道に渡り、日本海側を西にくだり、その桃源郷を目指した。
桃源郷はインドの地と異なり、大山の裾野の広大な新緑溢れる地であり、その地を『出芽』イズメと名づけた。
黒い砂による鉄の利器をつくり、農耕を勤しみ、国土開発に努めた。
そして日本の豪族と母系の宗家として和合し、文明の利器を与え、血を交わり、戦のない和合の共和国を長く維持した。
だが、中国の秦の時代、紀元前3世紀、始皇帝の部下の徐福が渡来してからその流れが変わった。
スサノオと後に云われた。物部の祖である。
和合の宗国イズメは戦いは好まなかったので和合していった。
しかも、秦も太古はクナド族であり、起源を同じとする者であったのだ、、、
因みに南インドにはワニ、コブラが生息し強靭な守護神とされ、象が農耕繁栄の神とされていた。
それが現代も神社建築の中に垣間見られる。
また、三種の神器の草薙剣は八岐大蛇の胎内から出たものである。


富の独占と戦い、競争と搾取、過剰生産の今の地球社会は、もう一度和合の与え合う、天、地、人、生き物の調和のとれたエコロジーな社会に戻るしかないと思うのです。
宇宙船地球号としてバランスを保ち進化していくのです。

2014年4月10日木曜日

大国主(オオクニヌシ)、素盞嗚(スサノオ)、天照(アマテラス)について。

 
1.目的と考え方 
 日本の古代史を書くにあたっては、権力を勝ち取った体制側の主張である「記紀」への依
 存を従来より少なくし、権力を失った反体制側の主張をより多く採り入れる必要があると
 思う。具体的には、大国主、次いで、スサノオ・物部氏などの主張の採用である。
 大国主の主張に関しては、大国主の子孫と名乗る富当雄氏の、一子相伝で語り継がれてき
 たという興味ある話がある。吉田大洋氏や司馬遼太郎氏が富当雄氏から聞きだされたもの
 がそれぞれの著作のなかに述べられている。まず、それの核心部分を利用して自分なりの
 古代史の大筋を描いてみたい。
 
 
2.結果  日本古代史の仮説
 イ.日本列島に昔のある時期から、オオクニヌシで代表される先住民(縄文人、国津神、
      出雲神族)が出雲に王朝を建てていた。(6千年前中国南部から渡来、~2世紀)。
 ロ.そこへ、朝鮮半島の新羅・加羅から押し出されたスサノオが渡来し(天津神、弥生人
   、倭人)、オオクニヌシを征服した(2世紀後半頃、出雲。出雲神。出雲政権)。
   そして吉備を経て、物部政権を建てた(3世紀初頃、奈良の纒向)。あえて言えば、
   物部政権は、1代神武から16代仁徳までに相当する。
 ハ.その後そこへ、アマテラスが朝鮮半島の百済から押し出され渡来し(これも天津神、
   中国東北部の高句麗色が強い)、スサノオを始祖とする物部政権に代わり、いわゆる
   大和政権(現天皇家につながる。藤原政権ともいえる。)を建てた。(5~6世紀頃
   、奈良大和)。あえて言えば、現天皇家は17代履中~29代欽明辺りから始まる。
 ニ.まとめると、
   先住民・縄文人・オオクニヌシ族が、新羅加羅からの渡来人・弥生人・スサノオ族に
   「国譲り」し、スサノオ族による纒向の物部政権が成立した。数世紀後、百済からの
   渡来人・アマテラス族が物部政権に入れ替わり大和政権を建てた。
   なお、スサノオとアマテラスとも、いいかえれば新羅・加羅と百済とも、その元は中
   国東北部から出た高句麗にある。その高句麗は、「高」が中国南部の稲作民族から、
   「句麗」が東北部の騎馬民族から、混じり合って成り立っているとみるべきである
   (東北部の句麗の比重が高い)。
 
3.この結果に到った説明と考え方
 ・オオクニヌシの先祖であり出雲神族(出雲神とは別)の祖神である出雲大神とはクナト
  (岐)ノ大神であり、4千年前に北から出雲に来て王朝を築いた。「4千年前に北から
  来た」といえば、出雲神族は縄文人ということ。先住民を国津神としている。
 ・「スサノオ・アメノヒボコによる出雲神族の凄惨な虐殺」とは、スサノオの「八岐大蛇
  (やまたのおろち)退治」が、たくさんいる出雲神族の龍蛇族の岐(クナト)ノ大神
  (オオクニヌシ)をスサノオが征服したということを示していると解釈できる。
 ・オオクニヌシによる出雲での銅鐸祭祀はスサノオによってやめさせられ、銅鐸などはオ
  オクニヌシの本拠地である富村付近(荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡一帯)の地中に埋めら
  れた。富村付近にはオオクニヌシの財宝が眠っているとの伝承があったり、富神社があ
  る。富=トミは、大和でニギハヤヒに従った先住民のトミナガスネヒコのトミであり、
  トミナガスネヒコが出雲神族の一員であることがわかる。なお、記紀には銅鐸について
  の記事が一切ない。銅鐸祭祀のオオクニヌシ出雲王朝を書き残したくなかったのだ。
 ・スサノオは出雲に四隅突出墓を導入し、その上で首長霊祭祀を初めて行った。オオクニ
  ヌシの精霊崇拝からの大きな変化である。この首長霊祭祀は、吉備でも楯築弥生墳丘墓
  で行われ、次いで奈良の纒向の纒向型前方後円墳へ、さらに前方後円墳へと継承されて
  行く。
 ・古事記などでは、オオクニヌシはスサノオの子または後裔とされるが、「スサノオ・ア
  メノヒボコによるオオクニヌシの虐殺」からみて、親子・後裔関係はありえず、敵対関
  係にある別種族とみるべきである。また、天津神のスサノオが国津神のオオクニヌシと
  親子・後裔関係にはなり得ない。
 ・「スサノオは出雲神族を破り、婚姻により習合した」からは、スサノオが出雲のオオク
  ニヌシをその支配下に置いたことを意味し、いわゆる「出雲神」の元が形成された。
 ・「スサノオ・アメノヒボコ」からは両者が連合・融合していったことがうかがえる。ア
  メノヒボコは気比(けひ→きび。今の敦賀)から出石、さらに吉備へ進み、そこで出雲
  から侵攻していたスサノオと連合・融合し物部氏を形成していった。
 ・出雲からはスサノオ・オオクニヌシの出雲神が、吉備からはスサノオ・アメノヒボコの
  物部氏が、奈良の纒向に進出し物部政権を樹立した。
  物部政権の期間は1代神武から16代仁徳までと推定する。1代から9代開化まではそ
  の妃が出雲神や物部氏関連であり、10代崇神から16代まではアメノヒボコ関連の武
  内宿祢が政治を支配していたらしいし、12代景行天皇=物部氏説もある。また、1代
  から9代は、現天皇家の実在の先祖とすることができないことは明らかであり、10代
  から16代は実在するとも実在しないともいわれている。すなわち、1代から16代ま
  では、現天皇家の先祖としては実在せず、物部政権の大王として存在していたとみる方
  がよいと推定する。
 ・吉備・出雲からスサノオ・物部・出雲神が奈良の纒向に進出してきた頃、北部九州では
  邪馬台国の卑弥呼がすでに活躍していた。記紀には邪馬台国と卑弥呼についてもほとん
  ど記述されていない。中国正史の魏志の倭人伝に、邪馬台国と卑弥呼の記事があるため
  申し訳程度に書いたとしか思えない。自分より早い政権については書かないという記紀
  編纂の方針があったためと思われる。
  なお、邪馬台国のその後については、中国、朝鮮半島および日本の史書のいずれにも記
  述がない。畿内の物部政権がそこを征服したとは思えず、北部九州政権、吉備政権、奈
  良纒向の物部政権、さらには南部九州政権が分立していたのではないだろうか。こう考
  える理由は、北部九州・吉備・纒向の物部系の3政権はスサノオ系=新羅・加羅系であ
  り、後から渡来してきたアマテラス系=百済系は南九州に入るよりほかに場所がなかっ
  たと思われるからである。
  また、宋書などに書かれた倭の五王の続柄が畿内大和政権の大王の続柄に合わない点が
  あるため、倭の五王は畿内大和政権の大王のことではなく、「九州王朝」の王について
  書かれたものだとする説がある。興味ある説であると思うが、筆者にはまだ知識不足で
  それについて記述することができない。もちろん記紀には九州王朝の記述などはない。
 ・「富家伝承にはアマテラスはない。宮中のアマテラス祭祀は平安以降に成立した」とい
  うことは、アマテラスはスサノオとオオクニヌシに対しかなり後世の神であったことを
  示している。記紀において、アマテラスとスサノオは姉弟とするのは作り話ということ
  になる。8世紀初めの記紀編纂時の権力者である藤原不比等と持統天皇が作り出したも
  のという説が当たっているようだ。スサノオとアマテラスは、朝鮮半島から渡来してき
  たという意味の天津神という点では同系統であるといえる。
  ・日本各地には、古代朝鮮国の国名をもった神社が存在している。新羅(加羅)神社、百
  済神社、高麗神社である。これらの神社の存在ははるか古代の朝鮮半島から渡来してき
  た人々が自分たちの国邑をそこに作っていたことを示している。この三国の中で新羅の
  神を祀る神社は群を抜いて多くかつ古いものが多い。これは新羅国が古代日本の創世期
  に主役を演じていたことをうかがわせる。新羅国を経由して渡来したスサノオが古代日
  本の形成の主役であったことを示している。百済系神社が少なくかつ比較的新しいこと
  は、アマテラスは日本の創世期には関与が少なく、日本神話を作るときに作り出され、
  付け足されたものと見える。
  九州南部にも新羅神社は多い。新羅(加羅)渡来の人々が居住していた。この新羅(加
  羅)の人の畿内大和への移住があったかもしれない。神武東征神話は南部九州の新羅(
  加羅)の人の畿内への移動を借用したのかも知れない。今後つめるべき課題である。
 ・古代日本の創世の神は新羅からのスサノオであることは「記紀」からも読み取れる。
   記紀に初出のスサノオは新羅のソシモリから渡来した。
   記紀の中での渡来神ではスサノオが最も古い。もちろん、ニニギの降臨よりも古い。
   記紀の中の神はスサノオに集約される。
  日本の正史「記紀」も、古代日本の創世神はスサノオでありアマテラスではないことを
  認めていることになる。
 ・アマテラスを祀る伊勢神宮を参詣する天皇は、明治時代より前はほとんどいなっかたと
  いう。また道鏡事件の時、和気清麻呂は神託を得るために、伊勢神宮へは行かず宇佐八
  幡宮へ直行した。オオクニヌシとスサノオが真の古代日本の建国者であり、アマテラス
  が後世の作り物で付け足しであることを知っている人たちは誰もアマテラスを信頼して
  いなかったことを示しているようである。さらに、古い神社の祭神はアマテラスは少な
  く、オオクニヌシやスサノオが多いという。これは、アマテラスの不人気ということよ
  りももっと重要な意味を持つと思われる。縄文人の心を持つオオクニヌシが、弥生とい
  う大陸からの全く異なる文化とともに、現在も日本人の心に生き続けていることである
  。縄文文化とは「何をも愛する博愛の文化」であり、弥生文化とは「自分のためなら何
  でもする・破壊する文化」であり、「西欧的文化」である。このため日本人は西欧から
  の理解を得にくい。この日本の特性をわかってもらうことに努力すれば、国際紛争の解
  決などに活躍の場を見出すことができるものと思われる。
 ・「万世一系」を示す「記紀」の方針から、オオクニヌシ・アマテラス・スサノオは異な
  種族にもかかわらず、神話の中ではいろいろな表現を用いて、無理を重ねて関係付けら
  れている。例えば、スサノオとオオクニヌシは親子、スサノオとアマテラスは弟姉、ス
  サノオとアマテラスは誓約(うけい)によって神を生んだとかである。特に誓約などは
  全く意味不明の表現で苦し紛れとしか思えない。なんとしてもアマテラスが最高の神で
  あるというところに持って行きたいための「からくり」を使っている。記紀神話は古代
  日本の形成を調べる上で最重要な史料ではあるが、そこに含まれている「からくり」を
  見極める必要がある。
  日本創世神話に出てくるアマテラスをすべてスサノオに置き換えるとよい。スサノオの
  業績を分割してアマテラスの業績にしていると思われるからだ。一人分の業績を神武と
  崇神に分割しているという記紀で使われている「からくり」がここにも使われている。
 ・朝鮮半島の三国の建国に刺激されて古代日本も建国されたと見るのが自然だろう。
  それらの建国時期は 新羅 356年  百済346年  加羅369年 である。
  すると、古代日本の建国は 370-390年と推定される。応神天皇時に対応する。
  しかし、大王による全国支配の確立は7世紀以降まで待たねばならないようだ。
 ・「記紀」には他の史書に書かれていることをわざと記述していないと思われるものがあ
  る。例えば、銅鐸、邪馬台国・卑弥呼、倭の五王、藤原氏の出自、天武天皇の出自など
  である。これらの「からくり」を見破ることが重要である。
  藤原鎌足の出自は百済王族の豊璋であるとか、その子とされる不比等は本当は天智天皇
  の子であるとかは重要である。(天智の子を宿した采女を鎌足に払い下げたとか)。
  「紀」には、天武は天智の弟とあるが、天武の方が年長というのが本当らしい。母であ
  る斉明天皇が舒明天皇と再婚するときの連れ子である。本当の父親は誰かが重要。新羅
  人である高向玄理という可能性が高い。
 ・中国正史「宋書」の「倭の五王」を見た記紀の編纂者は従来やってきた天皇の即位期間
  の引き延ばし策を採ることができなくなった。そこで倭の五王を記紀には記述しなかっ
  た。また、五王の最初の王「讃」に相当する大王以降の即位期間の記述を、従来の水増
  しした期間ではなく、正しいものを書くように改めた。17代履中以降は水増し無しの
  正しい即位期間を示しているようである。
 ・3世紀初から7世紀頃の間は、政権の交代などがあったと思われるのにもかかわらず、
  前方後円墳という墓制が維持された。この理由は二つ考えられる。一つは、政権交代が
  あったとしても同族同志であった。すなわち半島渡来の天津神同志であった可能性であ
  る。もう一つは、こちらが重要だと思うのだが、古代日本においては後から来て政権を
  握っても文化的には旧来の文化に同化されてしまう、すなわち、旧来の文化が魅力的で
  あったということです。古くは、スサノオが弥生文化を持ってオオクニヌシの縄文文化
  を征服することはできず、結局は両文化が現在までも維持されてきたのです。新来の文
  化が旧来の文化を駆逐するすることがなく、両者が持続するというのが日本文化の特徴
  であるようです。縄文文化のよさが今も残る日本の文化は自慢すべきものです。

4.大国主の子孫・富当雄氏の主張。興味ある内容なので重なるものも挙げる。
 01.大国主命の先祖であり出雲神族(注:出雲神とは別)の祖神である出雲の大神とは
    、クナト(岐)ノ大神(=熊野大神=道祖神=サエノカミ)であった。
 02.出雲神族は龍蛇族である。
 03.スサノオは朝鮮から砂鉄を求めて須佐の港に渡来し、出雲神族を破り、婚姻により
    習合した。
 04.出雲王朝はかつては北九州から新潟までを領有していた。
 05.クナトノ大神は岐(フナト)神、来名戸之(クナトノ)、祖神(サヘノカミ)な
    どとも呼ばれ、57代にも渡って何人もいた。
 06.天照大神は富家の伝承にはいない。宮中のアマテラス祭祀は平安以降に成立した。
 07.大国主命も固有名詞ではなく代名詞であり、17代続いた。神武天皇も一人ではな
    い。
 08.タケミナカタは天孫族に服従せず、越へ後退し、母方(越のヌナカワ姫)の勢力
    をバックに信州へ行き、第2出雲王朝を築いた。
 09.タケミカヅチは富氏伝承にはない。多氏一族が奉じた(タテカシマノ命、那加国造
    祖)。
 10.鹿島神宮は社殿内陣の構造が出雲大社に似ていて、クナトノ大神も摂社にある。
    宮下文書では、タケミナカタはミカヅチとフツヌシの兄となっている。
 11.藤原氏は富家伝承では帰化人。出雲大社社家の祖神だった天ノコヤネに続いてタケ
    ミカヅチを祖神とした。中臣氏は東国で鹿島神系と婚姻した。
 12.物部氏は、その祖ウマシマジが出雲神族のトミヤ姫を母とする親出雲族で、後に
    (崇神天皇前後)親天孫族に転向した。島根に侵略基地を置き、出雲へ侵攻した。
 13.天皇家で、神武系と崇神系は血族的断絶はないが、内紛によって別の系統から天皇
    が出た。
 14.渡来した天ノヒボコ族は吉備に移り、スサノオ系のスサ族と同化し始め、天孫族
    はヒボコ族と政略結婚を進めた。
 15.神武系の天皇家は武烈天皇で血統が絶え、大伴氏・物部氏・ヒボコ族は中立に近
    い出雲神族から、古志方面の首長だった継体天皇を立てた。継体系は続く安閑→
    宣化で王統が絶えた。
 16.出雲神族に戦いの歴史はなかった。
 17.天孫族は伊勢に攻め込み、王の伊勢津彦は建御名方富命が統治する信濃へ逃れた。
 18.天孫族の東国制覇はクナトノ神の先導によってなされた。
 19.出雲神族は北方から4千年前頃来た。ベーリング海を渡り、北海道、東北、出雲へ
    行った。
 20.富氏の大祖先はクナトの大首長(大神)だが、もう一つ隠された女首長(女神)
    にアラハバキがいた。体制側によってクナトとアラハバキが抹殺されかけたとき
    に、クナトは地蔵に、アラハバキは弁財天へと変化した。

 a. 約4千年前に、海の彼方から酋長・クナトノ大神に率いられて日本にやってきた竜
    トーテムの出雲神族が出雲に帝国を築き上げた。
 b. 出雲神族の独自の葬祭――風葬・水葬の文化。
 c. 大国主神の子で、山の民(サンカ・ホアケ隼人・蝮部)の祖である火明神(ニギハ
    ヤヒではない)。
 d. 出雲に攻めてきた牛トーテムのスサノオ・アメノヒボコによる凄惨な出雲神族虐殺。
 e. スパイだったアメノホヒ。
 f. 存在しなかったアマテラスオオミカミ。
 g. オオクニヌシとコトシロヌシの悲劇の死。
 h. 仲の悪い出雲(出雲神族)と石見(物部氏)。
 i. 実は、出雲神族の子孫であったナガスネヒコとノミ(トミ)ノスクネ。
 j. ここへ来ると血が逆流する。2千年前、ここで私の祖先が! 私の先祖は、侵略
    者の前で、抗議の自殺をしたんだ。ここでだ。
 k. 出雲神族の語り部である富氏は、徹底的に抹殺されてきた出雲神族の歴史を親子
    相伝の口伝でもって伝えられました。
 
  イ. 原出雲族(原出雲神族のこと)は紀元前2千5百年頃大祖先であるクナトの大神に
    引き連れられて出雲の地に着いた。原住民に鉄、製布、農耕などを教えた。出雲
    の地の王になった。この大移動途中、信濃に建御名方命、大和に登美族などの出雲
    族(出雲神族のこと)の分家ができた。土着の民人と融合し、地方の支配者となっ
    ていった。各地の大国主の誕生である。
  ロ. 出雲神族は東北から出雲へ西下した。
   ハ.  伯耆大山は根深い地蔵信仰がみられるが、これはもともとがクナトノ大神を祀る山
    だったからかもしれない。
  ニ. アイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰の意味で、本来一対のものであっ
    たという。
  ホ. 出雲神族の神裔には、オオクニヌシやコトシロヌシ、ホアカリがいた。ホアカリは
    サンカの間ではホアケと呼ばれ、祖神として崇められている。また、賀茂氏や三輪
    氏らも出雲神族の流れを汲む末裔の氏族である。
  ヘ. 出雲神族の渡来よりずっと後年になって、ニギハヤヒを祖神とする海洋系の部族集
    団が入ってきた。物部氏の祖先たちである。彼らは銅や鉄を扱い、新しい技術や祭
    祀形態などをもたらした。出雲神族同様、彼らは人々の暮らしを高めたので崇敬を
    得たものと思われる。出雲神族とニギハヤヒは別系統の種族かもしれないが海洋系
    部族であったことは間違いなく、ことによるとルーツを同じくしていたかも。

2014年1月10日金曜日

そうかもしれない・・・<彼ら>は我々の「霊性」を破壊しようとしている

99パーセントの人が知らない
世界の秘密
<彼ら>にだまされるな!

この本を「武器」に決起せよ! 

Facebook人気ユーザーランキング「12位」、
著書累計「20万部」突破の医師が教える、
新聞・テレビが絶対に報じない「真実の情報」。

医学の闇はもちろん、政治、経済、メディア、歴史、宗教に至るまで、
「この世界の秘密」を網羅的かつ徹底的にあばいた著者の新境地! 

◎この世の「常識」はほとんどすべて真っ赤なウソ
◎あなたは「優生学」をどれだけ理解しているか
◎<彼ら>は我々の「霊性」を破壊しようとしている
◎本当にロスチャイルドがこの世界を牛耳っているのか
◎「右翼」も「左翼」も<彼ら>がつくったエセ概念
◎あの戦争も仕組まれた茶番劇だった
◎「アホンション」に踊らされるスピリチュアル
◎「対案を出せ」という言葉の愚かさ
◎なぜあなたは「行動」しようとしないのか?
◎グーミンからの「脱出口」はすぐそこにある!


著者について
内海聡(うつみ・さとる)
1974年、兵庫県生まれ。筑波大学医学部卒業後、内科医として東京女子医科大学附属東洋医学研究所、東京警察病院などに勤務。精神医療分野での活動において「病を悪化させる精神科医療」の現実を痛感。その全貌を明らかにした『精神科は今日も、やりたい放題』を世に問う。その後、『大笑い! 精神医学』『医学不要論』『児童相談所の怖い話』(以上、三五館)など話題作の執筆活動、および精力的な講演活動で、医学の正体を伝えるべく奮闘中。



2014年1月5日日曜日

今日の神代日誌


とっても不思議なお話ですが、五色神社のお話も前伺ったことがあります。確かに世界の古代遺跡にある菊の紋章不思議ですね〜!! (^-^)

http://s.ameblo.jp/aries-misa/entry-11742051994.html

「世見」皇祖皇太神宮

古代の宇宙人の解明の途中ではありますが、今日の松原照子さんの「世見」は、日本の超古代文明に関するとても興味深い事柄が書かれていますので、ご紹介したいと思います。

神や天皇、宇宙人とも関係してくるお話です。


「皇祖皇太神宮」

<世見>2014年1月3日

お正月の三箇日間なんてアッという間です。明日には故郷や海外旅行を楽しんだ人達が我家に帰って来られるのですよネ。

でもネ。こうしてお正月休みをさせていただいている私達とは違い、お正月返上でお仕事をされておられる皆さんには、ありがとうございますと感謝を申し上げたく思います。

乗り物に関わる人や百貨店でもお仕事をされておられるのですよ。

お正月をお正月だぁ~と思えた人って幸福なことです。

今日もネ。不思議な世界の風呂敷おじちゃまから聞いたお話をお伝えします。

お正月三箇日はきっと自然界も特別なことをせずにいてくれることを心から願いながら、興味を抱く人には、ウヒェ~と思いたくなるお話をプレゼント致します。

「皇祖皇太神宮」がどこにあるのかはわかりませんが、今日の主役は皇祖皇太神宮です。

皇祖皇太神宮の神宝の石にはウガヤフキアエズ・オオツナデヒコが奉じ、キビツネノモトに日神・月神の造化神 ヒラミツト(日来神宮)を建てたとモリツネ文字で刻まれていたとか。

「日本にピラミッドがあった」と私が理解したお話を風呂敷おじちゃまは話されました。

「インカ帝国と日本を結ぶ、夢のある物語がどこかにある」とも思える風呂敷おじちゃまのお話です。

日来神宮をヒラミツトと読めるのかはわからないものの、現在の神道以前に日本にはピラミッドを太陽の神殿と思うインカ帝国の日神・月神の造化神なる山々をさす物語が日本中にあったと思われるのです。

ただ、ここでのピラミッドはファラオの墓とは少し違う気がしていますが、ファラオが自分を太陽の神と思い造ったとしたら、わかる気さえ致します。

<転載終わり>

「皇祖皇太神宮」は「竹内文書」と関係して来ます。

こちらの動画よりまとめさせていただきます。



太古の歴史を今に伝える「古事記」や「日本書紀」よりも、はるか昔の神話や伝承を記した古文書が「竹内文書」だ。

そこには、宇宙創造から始まる史実の数々がある。 




『天神 7代』には、宇宙・地球・人類の創造の歴史が記されている。

天神4代で地球に生命が誕生し、5代で初めてスメラミコトが地上に降り立った。

その場所は、日本。岐阜県大野郡舟山のあたりだった。




富山県5箇山にある天柱石は、スメラミコトとして地球に降臨した神々が、天と地を行き来していた場所と云われる。




6代の時代には、地球の公転を元に1年を360日と定めた。7代の時代には、自然気象・遺伝子工学・農業技術・医学・宇宙工学など各分野における専門の神々が、地球を人類が住める完璧な星に作りあげていった。

また、この時代のスメラミコトは岐阜県の飛騨高山近くの位山に大宮を建設し、天神人祖一神宮(あまつかみくにつかみはじめたましいたまや)として、世界統治の拠点とした。

鳥居や神殿は、ヒヒイロカネ(=オリハルコン)で作られていたという。

天神時代にスメラミコトは、地上の人類にスメラミコトの遺伝子を注入し、人類を5色に分けて世界に散りばめ、これを「五色人」と呼んだ。




オリンピックは、超古代の五色人の祭典を伝えるものだという。

天神7代で完成した地球の統治権は、天から降りてきたスメラミコトから、地上のスメラミコトへと移ることとなる。

次に、『皇統25代』(上古廿五代)の時代が訪れる。

この時代になるとスメラミコトは、天空浮舟(あまのうきふね=宇宙船)に乗って万国巡幸をし、世界の視察や王の任命を執り行った。




スメラミコトは、15人の王子と1人の王女を世界の主要な地域に派遣し、それぞれの地域を守らせた。




世界に点在している十六菊花紋は、超古代文明の存在を思わせる。




皇統10代、「天神人祖一神宮」を富山に移し、「皇祖皇太神宮」と改めた。




現在も小さな祠として残されている。




皇統時代には「神代文字」が生まれている。




文字の形や音には神のエネルギーが宿るという。

しかし、やがて人類の心が荒み、神々の怒りをかい天変地異が訪れる。

五色人はほぼ全滅し、スメラミコトとその一族は天の浮舟で地球外の惑星へと避難し、時を経た後再び戻っては、地球に新しい文明を築いていくという事を繰り返した。

この時代から、宇宙の神霊とスメラミコトとの交流は終わり、地上のスメラミコトは神霊から神勅を賜ることが出来なくなっていた。

『不合朝 73代』(ふきあえずちょう)の後期には、イエスを始め、釈迦やモーゼなど、世界各地の聖人たちがスメラミコトに会う為に、日本を訪れたという。




この時期、日本は大地震により壊滅的な状態に陥っており、国力は弱まりスメラミコトの力も世界に行き渡らなくなっていた。

不合朝69代の時、太平洋に浮かぶタミアラとミヨイという大陸が海に沈んだという。(アトランティスとムー)






世界は次第にスメラミコトの存在を忘れていった。

聖人たちは、それを憂いスメラミコトから学んだ宇宙の真理を世界に伝える事を使命とするようになった。

イエスキリストに神業を伝授した武内宿禰が、スメラミコトの代行として万国を巡幸したのを最後に、1つだった世界はバラバラになり、それぞれ独立した国として自己主張をするようになった。

『神倭朝』(かむやまとちょう、神武天皇以降、現在までの総称)の時代には、ようやく現在認知されている歴史の時代に入ったが、伝わっている内容は、「竹内文書」とは大きく異なっている。

こうして、超古代文明の記憶は歴史の闇へと埋れて行ったのである。

<まとめ終わり>

驚くことに、モーゼが日本に渡って来た時に、スメラミコトに十戒を奉納していたそうです。




モーゼが12年間住んだと云われている石川県の宝達山のふもとには、583歳で亡くなったモーゼの墓である三ツ子塚があります。






宝達神社の狛犬は、エジプトファラオの頭巾のようなものをかぶっているのは、その名残りでしょうか。




また、布教を始める前のイエスも、日本で修行を積んだという事が竹内文書に記されています。

青森県三戸にはイエスの墓があることで有名です。




世界のピラミッドのルーツは日本?!

「竹内文書」には日来神宮(ヒラミット)という記述があり、それを調査したのが酒井勝軍(カツトキ)だそうです。

彼はピラミッドが、古代の日本で発祥したものであることを確信し、日本全国にピラミッド探査を開始し、昭和9年、広島で葦嶽山(あしたけやま)を発見したそうです。

この葦嶽山には、数々の巨石遺構が残されています。




http://taiyo.goraikou.com/nihon/01ashi/ashi01.htm

日本には、こんなにたくさんのピラミッドが隠れているみたいです。




富山県にある尖山(トガリヤマ)は、世界最古のピラミッドと云われ、山の北面には石組みがあるそうです。




UFOの目撃が異常に多い所でもあります。

興味深いのは、ピラミッドの頂上には「太陽石」と呼ばれるエネルギー蓄積装置があったようで、これはエジプトのピラミッドの頂上にキャップストーンがあった事と共通します。

以前に妄想した事がありますが、これはオリハルコンで出来ていたのでしょうか?

照子さんが「皇祖皇太神宮」に触れ、少し補足するつもりが、こんなに長くなってしまいました。

天神時代に訪れたスメラミコトとは、宇宙人の事でしょうね。今年になってまとめ始めた『古代宇宙人シリーズ」とシンクロする内容です。

世界には、偽書とされ隠されてきた古文書がこのようにあるのです。

隠されている中にこそ、宇宙の真実があるのだと私は思っています。

楽しい~



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